2) 西村伊作の活動の概略 


2-a 西村伊作の略歴

1884(明治17)年  和歌山県新宮横町(現在の新宮市)の大石家に生まれる。
1892(明治25)年  母方の実家である奈良県下北山村の大山林家、西村家の養子となり、家督を相続する。
1903(明治36)年  広島の私立明道中学を卒業。その後は帰郷し自学自習の生活を送る。
1914(大正 3)年  新宮に三番目の自邸(現在の西村記念館)を建築する。
1919(大正 8)年  代表著書『楽しき住家』を出版し好評を得る。
1920(大正 9)年  大阪毎日新聞と東京日々新聞に「文化生活と住宅」が連載され大きな反響を呼ぶ。
1921(大正10)年  東京・神田・駿河台に「文化学院」を創立。
同     年   兵庫県の御影に、少し遅れて東京にも「西村建築事務所」を開設する。
1927(昭和 2)年  新宮から東京に転居する。
1963(昭和38)年  逝去、享年78才。

 

2-b 活動の概略

 彼は、公的な面ではかなり近代化が進んだものの、私生活の面ではさして江戸期と変わりない当時の民衆の状況を憂い、教育や衣食住の改革をめざしました。彼の活動で特に注目すべきものは教育と住宅建築の分野です。
 彼は、封建的な気風が色濃く残るそれまでの教育を改める必要を痛感し、近代人の育成をめざし、歌人・与謝野寛、晶子夫妻、画家・石井柏亭らの協力を得て1921(大正10)年、東京・神田・駿河台に「文化学院」を創立しました。今日彼は大正期自由主義教育の実践者として高く評価されています。
 大正から昭和初期にかけてこのような私立学校はいくつか生まれましたが、昭和戦中の軍国主義の時代にあっても彼は自らの信念を曲げず、学院は創立当初の精神を守り通した希な存在でした。

文化学院創立当時(『我子の教育』より)

 住宅建築の分野では、それまでの一家の主人とその客を過大に尊重した客間中心の住宅を否定し、 主婦や子供も含めた家族本位の住宅が必要であると考え、彼が生まれた和歌山県の新宮に、今日の私たちの 住宅の祖というべき、洋風の居間を中心とした小住宅:バンガローを、我が国で初めて建築しました。
 そして1919(大正8)年『楽しき住家』と名づけられた、このような住宅を啓蒙するための書を我が国では始めて出版し、 大きな反響を呼びました。この書の出版など彼の活動は、今日の住宅である居間式住宅が成立することに 非常に大きな役割を果たしました。
 彼はさらに、多くの人々の要望に応じるため1921(大正10)年、「西村建築事務所」を兵庫県の御影に、 少し遅れて東京にも設立しこの形式の住宅の普及に尽くしました。
 彼は世界に通じる日本人はいかにあるべきか、未来の日本を背負う子供らの教育は、またその家族の 生活の器である住まいはいかにあるべきかを、常に考え提案したのでした。 そして、このような彼の主張は民主的な傾向を強めていた時代状況の中で、人々から熱狂的に支持されたのでした。
 大正期とは国民が今後の日本人の生活はどうあるべきかを真剣に考えた時代であったともいえます。


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