新宮市出身の作家・佐藤春夫の東京の邸宅を、春夫の故郷・新宮市に移築、平成元年(1989年)11月に記念館として開館しました。
この建物は、昭和2年(1927年)東京都文京区関口に建てられ、昭和39年(1964年)春夫が72歳で亡くなるまでを過ごした家です。設計は大石七分。
同じく新宮出身で東京にある文化学院を創設した教育者であり建築家でもある西村伊作の弟です。
記念館入口のアーチ型の門や周囲を囲む塀、玄関に通じる石畳を含む庭のあたりは、もとの姿を模して作ったものです。
▼のうぜんかずら
春夫が大変愛した花です。別名は凌霄花(りょうしょうか)。
春夫の戒名はこの花にちなんで「凌霄院殿詞誉紀精春日大居士」とつけられました。
▼マロニエ
弟・秋雄が昭和5〜6年ごろ留学先のウイーンからの帰途パリで拾ってきたマロニエの種を春夫は大事に育てました。
東京の佐藤邸では大木に育っていました。秋雄が40歳過ぎの若さで亡くなったこともあり、春夫はこの樹をこよなく愛しました。
開館当時記念館に移植されたマロニエは、残念ながら平成11年に開花したのを最後に枯死してしまい、現在は二代目のマロニエが植えられています。
▼玄関
玄関のアーチ扉の小窓はマジック・ミラーで、外からは鏡ですが中からは透かして見えます。
入って西側にはステンドグラスの窓。東側の、書生室だったところは、いまは受付になっています。
玄関ホールの柱の細工は、春夫が大工さんからノミなどを借りて自分で細工したと言われています。
※春夫肉声の詩朗読
廊下には、春夫自身が朗読する「ためいき」「秋刀魚の歌」「少年の日」「望郷五月歌」の声が流れます。
▼応接間
南側にマントルピースのあるこの部屋は、始めは完全な洋室だったようですが、そのうちマントルピースの前に木枠で囲んだ3畳の間を作り、机を置いて来客と接するようになりました。
昭和39年5月6日、朝日放送のラジオ番組「一週間自叙伝」の録音中、「さいわいに…」の言葉を最後に倒れ、不帰の人になってしまいましたが、その録音はここの畳の間で行われていました。
▼サンルーム
1階の廊下から見上げると吹き抜けのサンルームなっています。
2階の廊下のところは、もともと全面外に張り出したバルコニーでした。
バルコニーはよかったのですが、そのうち床が痛み、階下に雨漏りするようにりました。
そこで改造することになり、バルコニーの床を外したところ、1階がとても明るくなったので、
春夫はそのバルコニーを屋根も窓も全部ガラスのサンルームに改造し、2階の床を張らずに吹き抜けにしようとしました。
しかし、2階のガラスを拭くのに廊下が要るという家族の意見もあり、2階に廊下と1階に通じる狭い階段を設けたそうです。
▼展示室
寝室だったところをほぼ倍の広さに改造し「展示室」にしています。
春夫の多様な詩集、小説、随筆、翻訳の初版本や春夫の絵画作品、自作詩歌の書、
谷崎潤一郎と春夫連名の(離婚、結婚)挨拶状その他を展示しています。
※展示は時々変更します。
▼八角塔の書斎
外から見ると塔のようにそびえるこの部屋は、八角形をしていることから「八角塔」と呼ばれています。
ここは2畳のごく小さな書斎で、春夫自身は“慵斎”(ようさい)と称していたようです。
春夫は、狭い書斎を好み、「参考の本などすぐとれるし、片付けるのにも早いし、冬は暖かい」と自賛していたそうです。
また、「芥川の書斎も狭い、傑作は狭い所から生まれるものだ」とも言ったと伝えられています。
▼一牀書屋 ※八角塔内展示物
晩年、春夫は陶芸家・河井寛次郎に“一牀書屋”(いちじょうしょおく=ごく小さな書斎を表す)の題字の揮毫を頼みました。
書は、春夫の没後に届けられ、春夫は目にすることができませんでした。
▼和室
ここは母・千代とともに同居していた谷崎鮎子がよく使っていた部屋ともいわれます。
▼門弟代表のメッセージ
※和室内展示物
昭和40年春夫一周忌に、東京・西武百貨店で「文豪佐藤春夫展」が開催されました。
その会場に、門弟の代表として井上靖、井伏鱒二、奥野信太郎、庄野英二、柴田錬三郎、檀一雄、
中谷孝雄、安岡章太郎、吉行淳之介の9人が寄せた直筆のメッセージ・パネルを展示しています。
メッセージはそれぞれに異なる面から師・春夫の人となりを実によくつかみ表現しています。
▼ステンドグラス風の障子
※和室内展示物
和室の奥に、西洋画のポスターをガラスにはめた障子があります。このポスターは弟・秋雄がヨーロッパから持ち帰ったもので、春夫はこうして亡き弟を偲んでいたようです。
▼小展示室
2階の納戸だったところを、春夫少年時代の展示室としています。本人や両親の写真、初恋の人・大前俊子の写真、自身の少年時代をモデルとした『わんぱく時代』の初版本等を展示しています。